中西けんじの国政報告をはじめ、所属している各委員会での議論内容などについてご報告させていただきます。
2015年06月18日 (木)
議長提出:2015年06月18日
内閣転送:2015年06月22日
回 答:2015年06月26日
昭和四十七年の政府見解における「基本的論理」に関する質問主意書
政府は、平成二十七年六月九日の「新三要件の従前の憲法解釈との論理的整合性等について」において、「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」(平成二十六年七月一日閣議決定)で示された「武力の行使」の三要件(いわゆる新三要件)は、昭和四十七年十月十四日に参議院決算委員会へ政府が提出した「集団的自衛権と憲法との関係」で示された政府見解(以下「昭和四十七年の政府見解」という。)の基本的な論理を維持したものである、と主張する。
政府が、「新三要件の従前の憲法解釈との論理的整合性等について」において引用する昭和四十七年の政府見解は、以下のとおりである。
①憲法は、第九条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が・・・・平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第一三条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、・・・・国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであって、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない(以下「①の論理」という。)。
②しかしながら、だからといって、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである(以下「②の論理」という。)。
③そうだとすれば、わが憲法の下で、武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない(以下「③の論理」という。)。
そして、政府は、①から③の論理の関係について、「①と②の部分が基本的論理でありまして、それについて、③の部分が帰結ということで、結論ということにこの文章はなっております。」(平成二十七年六月十日の衆議院我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会における中谷元防衛大臣の答弁)と答弁している。
さらに、政府は、基本的論理と結論を整理する根拠について、「③の部分の冒頭にありますとおり、「そうだとすれば、」ということで結論として述べているものでございます。」(平成二十七年六月五日の衆議院我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会における横畠裕介内閣法制局長官の答弁)として、「そうだとすれば」という接続詞に着目する旨の答弁を行っている。
しかし、③の論理をつぶさに見ると、「わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」という命題から、「したがって」とつなげて、対偶の関係にある「他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」という命題を導くものである。そのため、③の論理における「したがって」という接続詞は、対偶を取る形で論理を展開する役割を果たすものであり、「したがって」より後の部分が結論であると考えられる。
その結果、③の論理は、全体が一塊として結論を構成するものではなく、「したがって」より前の部分は①及び②の論理とともに基本的論理を構成する一方、「したがって」より後の部分が結論に相当するものと思われる。
以下、質問する。
一 ③の論理における「したがって」という接続詞は、「わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、我が国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」という命題から、「他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」という命題へ論理を展開する流れを表すものと認めるか。仮に、認めないとした場合、「したがって」の前後にある命題の関係と、「したがって」という接続詞の意味(順接、逆接など)を明らかにされたい。
二 政府が昭和四十七年の政府見解として引用する①から③の論理のうち、結論に相当するものは、③の論理のなかの「したがって」より後の部分に限定されるのではないか。仮に、③の論理全体を一塊として結論と捉える場合、結論であるにもかかわらず、「したがって」の前後で論理を展開する矛盾が生じるのではないか。
三 政府が昭和四十七年の政府見解として引用する①から③の論理のうち、基本的論理に相当する部分は①及び②の論理に加えて、③の論理の「したがって」より前の部分も含まれるのではないか。仮に、③の論理の「したがって」より前の部分は基本的論理に含まれないと解するのであれば、当該部分を基本的論理から除く理由を明らかにされたい。
右質問する。
参議院議員中西健治君提出昭和四十七年の政府見解における「基本的論理」に関する質問に対する答弁書
一から三までについて
昭和四十七年十月十四日に参議院決算委員会に対し政府が提出した資料「集団的自衛権と憲法との関係」は、御指摘の①及び②の部分において、憲法第九条の下でも例外的に自衛のための武力の行使が許される場合があるという基本的な論理を示した上で、御指摘の③の部分において、これに当てはまる場合は我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるという当時の認識の下で、結論として、この基本的な論理に当てはまる例外的な場合としては、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとしたものである。御指摘の③の部分の「したがつて」という文言は、この結論の部分において、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と解する以上、これと同義のものとして、「他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない」という関係にあることを表しているものと解される。
≪提出にあたって≫
政府が、限定的な集団的自衛権の行使容認の根拠として主張している、昭和47年の政府見解について質問主意書を提出しました。
昭和47年の政府見解とは、従来「集団的自衛権の行使は、憲法上認められない」という政府見解を説明する者でした。
ところが、政府は、「日本を取り巻く安全保障環境が変わった。」「昭和47年の政府見解の基本的論理は維持されている。」として、いままで集団的自衛権を否定する根拠としてきた昭和47年政府見解を用いて、「限定された集団的自衛権の行使であれば、憲法上許容される」という閣議決定をするに至りました。
これまで否定材料に用いてきた昭和47年見解を、肯定材料に用いる政府の姿勢に疑問が示されております。
そこで、今回の質問主意書では、接続詞に着目しつつ、「昭和47年政府見解の基本的論理とは何を指すのか」という点について質問しました。
昭和47年の政府見解の大まかな内容は、以下の通りです。
①憲法は、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置を取ることまでは禁じていない。
②もっとも、自衛の措置は、外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、これらの権利を守るために必要最小限の範囲にとどめるべきである。
③「そうだとすれば」、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、我が国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、「したがって」、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は憲法上許されないと言わざるを得ない。
そして、政府は、「③の冒頭に『そうだとすれば』という結論を導く接続詞があるため、③の部分全体が結論である。」として、「これより前の①および②の部分は基本的論理であり、維持しなければならないが、③は結論であり当てはめの問題に過ぎないので、安全保障環境の変化によって改めても問題ない。」ことを理由に、限定された集団的自衛権の行使を容認する立場へと憲法解釈を改めました。
しかし、接続詞に着目するならば、③の中ほどに「したがって」という、結論を導く接続詞があることに気が付きます。すなわち、政府の見解にそって分析するならば、「①及び②の部分と③の『したがって』より前の部分が、基本的論理であり維持しなければならない。」ということになります。
そして、③の「したがって」より前の部分は、憲法上容認されるのは個別的自衛権の行使に限られる、という見解を示すものであるため、この部分が基本的論理に含まれると、集団的自衛権の行使は認められない、ということになります。
そこで、以下の点について質問しました。
①論理③にある「したがって」とは、論理を展開する流れを表す接続詞という理解で良いか。
②昭和47年政府見解の結論に相当する部分は、論理③の「したがって」より後の部分ではないか。
③昭和47年政府見解の基本的論理に相当する部分は、論理①および論理②に加えて、論理③の「したがって」より前の部分という理解で良いか。
確かに、現在の東アジアの安全保障環境を考えるならば、集団的自衛権の必要性は否定できません。しかし、過去の戦争の教訓から「歯止め」は必要です。
その点で、過去の否定材料(昭和47年政府見解)を肯定材料に用いる政府の姿勢には、不安が付きまといます。
政府の昭和47年見解の変更が十分な歯止めになるのかを、質して参りたいと思います。
≪回答を受けて≫
政府の回答は以下の通りとなります。
①論理③にある「したがって」とは、論理を展開する流れを表す接続詞という理解で良いか。
→「したがって」という接続詞は、前の部分と後の部分が同義の関係にあることを表す接続詞である。
②昭和47年政府見解の結論に相当する部分は、論理③の「したがって」より後の部分ではないか。
→論理③全体が、昭和47年政府見解の結論に相当する部分である。
③昭和47年政府見解の基本的論理に相当する部分は、論理①および論理②に加えて、論理③の「したがって」より前の部分という理解で良いか。
→論理①および論理②が、昭和47年政府見解の基本的論理に相当する部分である。
今回は、政府の答弁①に着目しました。といいますのも、政府は、「したがって」という接続詞を、前の部分と後の部分が同義の関係にあることを表す接続詞と説明しているからです。
そもそも、「したがって」という接続詞は、前の条件によって順当にあとの事柄が起こることを表す接続詞であって、前後が同義の関係を表す接続詞ではありません。前後が同義の関係にある接続詞を用いるのであれば、「したがって」ではなく、「つまり」あるいは「すなわち」を用いるはずです。
昭和47年政府見解の政府の解釈変更は、相当な無理がある論法です。そのため、このような接続詞ひとつひとつを丹念に洗い出せば、綻びがみえてまいります。
集団的自衛権の議論は、国家の命運を揺るがしかねない重大な政治判断を孕んでおります。二度と戦争の災禍をもたらすことのないよう、今後も注意深く問題点を洗い出してまいります。